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1000年の処刑場:血に染まる三条河原と六条河原の歴史

鴨川 8)ミステリー

京都市内を流れる鴨川。特に賑わうのが三条大橋周辺ですね。テレビ中継でもよく映ります。夏は納涼床で涼んだり、川べりは恋人たちのデートスポットです。等間隔に座るカップルは、もう鴨川名物でしょう。今は平和な三条河原です。

でもこの三条河原が、かつて恐ろしい場所だったのをご存知でしょうか?

平安から江戸末期まで、ここは処刑場として使われ多くの罪人が処刑されさらし首にされました。

特に三条大橋のたもとは、その場所として有名です。今では想像できない血塗られた過去があるのです。

歴史上の著名人も、ここで最期を迎えたり首を晒されているのです。三条河原の知られざる歴史を見ていきましょう。

 

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京都のシンボル、三条大橋と河原の知られざる歴史

観光地からは想像できない「処刑場」としての顔

今の賑わいからは考えられないでしょう。でも三条河原は長い間さらし首が行われたり、処刑が行われる処刑場でした。人々の前で罪人が殺され、首が見せしめに晒されたのです。争いに破れたり罪人や謀反人には厳しい罰が待っていました。

平安から幕末まで続いた血塗られた過去

鴨川の河原が刑場やさらし首の場所になったのは平安時代からです。特に三条河原は人目に触れやすい場所として使われました。政治犯や重罪人、反逆者の処刑やさらし首が行われたのです。平安から江戸末期まで血塗られた歴史が続きました。

南にある六条河原も刑場でした。六条で処刑された首が見せしめのために三条河原に運ばれ、晒されることもありました。

 

三条河原で最期を迎えた著名な人物たち

三条河原では多くの人々が処刑やさらし首になりました。特に歴史に名が残り三条河原にゆかりの深い人物を表でご紹介します。

西暦 人物 事由 刑罰 三条河原での状況
940年 平将門 平将門の乱 さらし首 討ち取られた後、首が京へ。七条河原に晒されたと言われます(鴨川河原の一つ)
1593年 豊臣秀次 (謀反の疑い) 切腹(後さらし首) 高野山で切腹後、首が三条河原でさらし首になりました
1593年 豊臣秀次の妻子39人 (豊臣秀次の連座) 処刑 秀次の首の前、三条河原で集団処刑されました
1594年 石川五右衛門と家族 (盗賊行為) 油で釜ゆで 三条河原で処刑されたと伝えられます(諸説あり)
1601年 石田三成 関ヶ原合戦 斬首(後さらし首) 六条河原で斬首後、三条河原でさらし首に
1601年 小西行長恵瓊 関ヶ原合戦 斬首(後さらし首) 六条河原で斬首後、石田三成と共に三条河原でさらし首に
1868年 近藤勇 戊辰戦争 斬首(後さらし首) 板橋で斬首後、首が三条河原に運ばれさらし首に
その他 多数 反乱、犯罪、弾圧など 様々 三条河原またはその周辺で処刑・さらし首になっています

ここに挙げたのは一部です。実際にはさらに多くの人々が三条河原や周辺で最期を迎えています。

 

始まりとなった鴨川河原でのさらし首

鴨川の河原がさらし首の場となったのは平安時代の940年です。反乱を起こした平将門の首が京に送られ、七条河原に晒されました。これが鴨川河原でのさらし首の始まりの一つです。

その後、平安時代末期の保元・平治の乱を経て死刑が復活します。六条河原などが刑場となり藤原信頼が六条河原で斬首されました。

そして三条河原も多くの人々の目に触れる重要な刑場、さらし首の場として使われていくのです。戦乱や権力争いの罪人がこの河原へと送られました。

 

豊臣秀吉に恐れられた大盗賊「石川五右衛門」

安土桃山時代の大盗賊、石川五右衛門。ほぼ伝説化している人物ですが、歴史上の石川五右衛門は京都の街を荒らす盗賊でした。

三条河原での釜茹での刑

捕らえられた理由は諸説ありますが、彼は京都の三条河原で処刑されたと伝わります。刑は「釜茹で」。大きな鉄鍋で煮殺す残酷な刑でした。盗賊団の仲間や家族9~10人も共に処刑されたそうです。

子を救おうとした逸話

五右衛門が子を抱きかかえ釜に入った話は有名ですね。三条河原での釜茹では人々に強い衝撃を与えました。

ただし、処刑場所は三条河原説が有名ですが、他の場所とする説もあります。

豊臣家の悲劇「豊臣秀次とその妻子」の凄惨な処刑

三条河原で行われた処刑で最も凄まじく、人々の心を傷つけたのが、豊臣秀次の妻子39人の最期です。秀吉に実子がいなかった頃、甥の秀次が関白になりました。でも秀頼が生まれると秀次は邪魔になります。

秀次失脚と三条河原へ

1595年、秀次は謀反の疑いで高野山へ送られ切腹しました。秀吉の怒りは収まらず秀次の首は京都の三条河原に運ばれさらしものになります。さらに、妻や子、侍女ら39人がこの三条河原に引き出されたのです。

目の前で行われた処刑

三条大橋の下に塚が作られ秀次の生首が置かれました。その前で幼い子が母親の前で次々と斬られ、女性たちも処刑されました。泣き叫ぶ声、折り重なる遺体…「ひどすぎる」と罵声が飛んだそうです。

畜生塚と瑞泉寺

遺体は穴に投げ込まれ、埋められました。塚は「畜生塚」「摂政塚」と呼ばれました。後に、この悲劇を悼んだ角倉了以により、供養の寺が建てられました。それが、三条にある瑞泉寺です。瑞泉寺には、秀次たち一族を弔う供養塔が静かにあります。

 

石田三成と近藤勇:首が晒された三条河原

1600年。関ヶ原合戦で敗れた石田三成。京都へ護送され六条河原で斬首されました。でも、その首は三条河原まで運ばれ三日間晒されたのです。徳川家康が逆らう者の末路を見せつけ権力を示すためでした。

幕末の新選組局長、近藤勇も三条河原と縁があります。戊辰戦争で敗れ関東の板橋で斬首されました。その首は反幕府勢力への見せしめに、はるばる京都の三条河原に運ばれ晒されたのです(1868年)。

彼が活動した京都の中心部でのさらし首は人々に強い衝撃を与えたでしょう。

三条河原で処刑されたその他の人々

三条河原では、他にも多くの処刑やさらし首が行われました。

室町時代の嘉吉の乱や禁闕の変に関わった人物の首も、三条河原や六条河原で晒されています。斎藤利三も六条河原で斬首後、三条河原でさらし首に(安土桃山時代)。大坂夏の陣後の長宗我部盛親豊臣国松も、六条河原で斬首後、三条河原に晒されました(江戸時代)。キリシタン弾圧の犠牲者なども、この河原で処刑された記録があります。

なぜこれほど処刑が行われたのか

なぜ多くの処刑が三条河原で行われたのか? そこには時代背景や社会情勢が大きく関わっています。戦乱で敗れた者、秩序を乱した者などが、見せしめのためにこの場所で処刑されたのです。

なぜ「三条河原」が処刑場に使われた?理由に迫る

京都には刑場がいくつかありましたが、特に三条河原が長く使われたのには理由があります。三条河原が処刑場として選ばれた場所だったのです。

人通りの多さと「見せしめ」の効果

三条河原は昔から人通りが多い場所でした。京に出入りする人、川を行き交う人など、多くの目につきます。処刑やさらし首は他の人への「見せしめ」でした。権力に逆らうとどうなるか知らしめるため、あえて人通りの多い三条河原が選ばれたのです。大勢の前で行うことで、その効果を高めたのでしょう。

水辺の「穢れ」思想と非日常空間

日本の古い考えに、死や血は「穢れ(けがれ)」とする思想がありました。処刑は町の中心部ではなく、町外れや非日常空間で行われることが多かったです。川原は町の境界であり、水が穢れを洗い流すと考えられました。

また、水辺は生と死の境界のような非日常的なイメージも持たれていたため、刑場に選ばれやすかったと言われています。聖と俗、清と不浄といった感覚が、処刑場としての場所選びに影響したのかもしれません。

管理のしやすさという側面も

広い河原は刑場として整備や管理が比較的簡単だったでしょう。当時の河原は現在よりも広く平坦な場所が広がっていました。設備を置きやすく、多くの人数を収容できました。また、死体をそのままにしやすかった側面もあるようです。

 

血塗られた歴史を超えて:三条河原の処刑場跡と現在

賑わう観光地となった三条河原の今

かつて刑場だった三条河原は時を経て今は多くの人々の憩いの場です。当時の面影は、ほとんどありません。美しい鴨川、歴史的な三条大橋、川沿いのお店や納涼床…人々は思い思いに楽しんでいます。歴史を知らなければ、ここが刑場であったとは気づかないでしょう。

処刑された人々を弔う瑞泉寺などの存在

でも、この場所の暗い歴史を忘れないという思いも受け継がれています。豊臣秀次とその妻子を弔う瑞泉寺はその代表です。三条にある瑞泉寺の供養塔は凄惨な事実を今に伝えています。

他にも、かつて処刑された人々を弔う地蔵や石碑が、ひっそり残されている場所もあります。これらは過去の悲劇を記憶し、犠牲者に祈りを捧げる大切な存在です。

 

まとめ

京都の三条河原は、今の穏やかさからは想像できない、血塗られた刑場としての長い歴史がありました。石川五右衛門豊臣秀次一家、石田三成近藤勇など、多くの著名人がここで最期を迎えたり、さらし首にされています。当時の政治や社会秩序のため、彼らは処刑されたのです。

三条河原が刑場に使われたのは、「見せしめ」効果、水辺の「穢れ」思想、管理のしやすさなど、複合的な理由がありました。処刑場という場所は、当時の社会秩序を保つ手段であり、人々に恐怖を与え、権力の絶対性を示したのです。

今の三条河原は平和な観光地ですが、瑞泉寺のような供養の場は、過去の悲劇を静かに語りかけます。歴史を知ることは、過去を学ぶだけでなく、今の平和や人権の大切さを考えるきっかけになります。三条河原を訪れる際は、この場所のもう一つの顔、血塗られた歴史に少し思いを馳せてみてはいかがでしょうか。華やかな京都の町にも、そんな歴史がありました。疫病や戦乱に悩まされ、不安の中で生きた人々は、神仏にすがったのでしょう。京都に神社仏閣が多いのも、神様の力が必要だったからかもしれません。

 

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